院政について語ろう

1日本@名無史さん2011-09-29 23:39:21

摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。

白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。

3日本@名無史さん2011-10-01 21:05:21

天皇で院政期以降、名前に「仁」がつかないのは珍しい。

そして「仁」のつかない4人が悉く戦火を招いたのは偶然だろうか?

尊成(後鳥羽)

守成(順徳)

懐成(半帝)

尊治(後醍醐)

後鳥羽が決起しなくとも、院の力は殺がれて行ったのだろうか。

後醍醐が欲張らなければ、両統迭立は続いていたのか。

4日本@名無史さん2011-10-02 02:01:29

>>3

仁が天皇家の通字になったのは北朝からじゃなかった?

5日本@名無史さん2011-10-02 02:14:35

>>4

後三条天皇(諱:尊仁)からでしょう。その後は白河(諱:貞仁)、堀河(善仁)と「仁」字が

続いていますし。

白河天皇の第一皇子は敦文と「仁」字でないけれど、この時点では父親の天皇自身が

一代限りの含みだったはずですね。

8日本@名無史さん2011-10-02 17:35:37

>>5

一代限りの天皇って条件で即位させても、大体失敗するよね。白河も後醍醐もそう。

崇徳も形の上でそうなって乱を起こした。

天皇位を自分の直系子孫に継がせることの意義はどこにあるのだろうね。

天皇になれても苦悩は続く。

40日本@名無史さん2011-11-16 22:28:10

元々神器の引き渡し等々は践祚の付属儀式みたいなもので、重きは

置かれていなかったというからね。

41日本@名無史さん2011-11-17 01:32:49

>>40

懐成(仲恭)が「半帝」と呼ばれたのは、承久の乱のごたごたで幕府によって下ろされたから。

当然、治天(後鳥羽)の伝国の宣命を受けており、正統性については何の問題も無い。

因みに後鳥羽は次期治天に順徳を考えていたようだ。こうして見ると皇位継承と言うのもいい加減なもので、

幼児を玉座に座らせ「次期天皇はお前だ」と治天がささやけばそれで終わり。だからこそ治天の存在が

天皇の製造には不可欠である。

42日本@名無史さん2011-11-19 02:26:56

さて、南軍に皇位経験者を全て連れ去られた北朝では、

天皇の後継(弥仁)は確保したが治天の不在はどうしようも無かった。

しかし、幕府としても拱手できる話では無い。これより前に為された

正平一統によって北朝が否定された以上、北朝に任じられた幕府もまた

法的な存在根拠を失ったからだ。

そこで幕府は、光厳、光明2代の母である西園寺寧子(後伏見女御、当時落飾して広義門院)を

治天に担ぎあげて強引に朝廷を再興させたのであった。天皇家に出自せず、また女性の身で

治天になったのも空前絶後なら、弥仁の即位式に神器も欠くと言う異例のオンパレードであった。

これにより北朝の天皇の権威は地に堕ち、弥仁(即位して後光厳)の子緒仁(後円融)の時代に

足利義満が皇位簒奪の動きを見せるのである。そして300年に及ぶ院政もまた、後円融の時に

終焉を迎えるのであった。

44日本@名無史さん2011-12-12 11:02:52

>>41

仲恭天皇が半帝と呼ばれたのは即位の礼が行われてなかったからだよ。

幕府に降ろされたら半帝だなんて馬鹿なことはない。

>>42

広義門院は治天にはなっていない。

足利義詮から院政を請われたが、辞している。

後光厳帝が広義門院の院宣で即位したのは事実だが、だから権威が崩壊したというのは意味不明。

天皇家ではもとより天皇=皇后、上皇=女院であって、女性は治天になれないという不文律はない。

天皇と皇后が共に政治を執った時代は長く、女性の政治参加は当たり前だった。

43日本@名無史さん2011-12-04 22:28:27

院政の日本人読んだが、結論はこれといってないのか

双調平家物語の副読本としては読みやすかった

47日本@名無史さん2011-12-18 00:39:08

崇光・後光厳の兄弟仲だけでなく、光厳・後光厳の父子の間柄も

悪くなったということじゃなかったかな。

48日本@名無史さん2011-12-18 02:11:17

>>47

というか北朝内で団結しないと幕府にまた南軍に走られる可能性があるからね。

皇位については南方の一存にゆだねるなんて言われたらどうしようも無い。

50日本@名無史さん2011-12-20 00:10:50

>48、49

光厳院は、後光厳を正統と認めていないよ。

長講堂領などの持明院統伝来の所領も、秘曲も文書も、全て

崇光院に渡されている。

このような「一代限り」という処置が、余計に父子の間柄を冷たく

したのではないか、というような話もあるね。

53日本@名無史さん2011-12-23 11:26:54

>>50

都へ戻ってきた崇光上皇は、都で即位していた弟後光厳天皇に対し

退位とわが子栄仁親王即位を求めたが、光厳上皇は後光厳天皇の続投を認めた。

これは後光厳天皇を正統と認めたからでは?

後光厳天皇がわが子に違いはない崇光上皇の生活のために所領を与えたこととは別。

その与えた所領も崇光上皇没後は「皇室に戻すように」と条件を付け、

実際この通りになっていることからもわかる。

54日本@名無史さん2011-12-26 00:56:26

>>53

それもこれも結局は幕府の意向だろ

正平一統時の不手際が原因

いまさら混乱を招くような事を認めるはずもない

55日本@名無史さん2011-12-26 10:28:47

>>54

50が主張するような光厳が後光厳を正統と認めなかった根拠があるとでも?

天皇家は兄弟相続はつきもので弟が正統とされたことはいくらでもある。

後光厳は崇光の系統であっても可としたことは事実なわけで。

崇光の彼岸通り崇光の子栄仁親王を後光厳の立太子とすることは

光厳の認可すらあれば十分可能だったはずだが(幕府が拒絶したわけではない)

光厳はそれすら必要なしと判断、栄仁親王に一代に限り与えた所領は

「天皇家に戻すよう」と遺言した。

56日本@名無史さん2011-12-26 22:09:03

>>55

> 崇光の彼岸通り崇光の子栄仁親王を後光厳の立太子とすることは

> 光厳の認可すらあれば十分可能だったはずだが(幕府が拒絶したわけではない)

幕府の意向は、「聖断たるべきよし」、すなわち「後光厳の意思にまかせる」だよ。

当時の状況で、幕府の意思を押し切って

> 光厳の認可すらあれば十分可能だったはず

なんて話は到底不可能。後、

>栄仁親王に一代に限り与えた所領は

とはどこのことですか?崇光院の管理していた長講堂領等に関する光厳院の置文は、

・親王(栄仁)践祚あらば、ただちにご相続あるべし

・もししからずば、禁裏(後光厳)御管領あるべし

・ただし、末代両方御治天あらば、正統につきて伏見殿御しそん御管領あるべき由

(横井清「室町時代の一皇族の生涯」)

であり、明確に崇光院の系統を「正統」としていますよ。

58日本@名無史さん2011-12-27 22:15:08

>>57

正統につきて「伏見殿御子孫御管領」というのが光厳院の遺命ですよ。

後光厳の系統ではありません。

そもそも、長講堂領等が崇光院の系統から取り上げられたのは、あなたがいう「栄仁

親王没後」ではなく、「崇光院崩御後」であり、栄仁親王は取り上げられた当事者です。

で、史料は、>>56の文献に引かれている椿葉記や、諸書に引かれている光厳院の

置文そのものですが、あなたが主張する

>栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。

という話の根拠は何ですか?

66日本@名無史さん2012-02-24 12:22:21

院の存在が不可欠になったのはいつからだろう?

平家による後白河院政停止が続いていれば、

形式上は天皇親政に戻っただろう。

それにしても院というものはあまり価値が無いんだな。

後白河は平治の乱の時、顧みられず捨て置かれた。

72日本@名無史さん2012-02-27 20:35:32

>>66

発生は後三条が白河に譲位した時でしょう。

院政は、愛した女の子供を東宮にしたい願望から発した父の呪縛から離れたい要素が決定的な事柄だと思う。

71日本@名無史さん2012-02-27 20:34:57

NHKで今やってる平清盛で初めて院政とか摂政とかに興味を持った俺に

まず最初に何から勉強すればよいのか教えろください

74日本@名無史さん2012-02-28 09:00:42

>>71

院政の特徴は、「俺は今日から院政をする」と明確な意思をもって開始されたのではないこと。

何となく複数の要素が噛み合って、白河上皇に有利な流れが出来て、それに上手に乗っかったというのが真相。

例えば摂関家の当主師通が30代で突然死し、後継の忠実が22歳でその地位を継いだこと。

例えば>>72で白河の東宮にされた「愛した女の子供」が15歳で夭逝し、東宮位が空いたこと。

例えば白河の溺愛していた妃、賢子が28歳で亡くなったこと。

身辺の人間が次々に亡くなって行ったことで宮廷内の力関係が急変し、そこに上手に白河が付け込んだ。

あれよあれよと言う間に絶対権力が「いつの間にか」出来上っていた。

76日本@名無史さん2012-02-28 10:00:00

>>74

一般的に堀河天皇のときに白河上皇によるり院政が始まったとされているけれども

堀河天皇は摂関家を外戚とする天皇で(母賢子は藤原師実の養女だった)

関白藤原師通は退位した天皇(白河院)の政治介入を激しく批判、

堀河天皇本人も師通に同調したために白河院政は軌道に乗らなかった

実質的に白河院政が行われたのは続く鳥羽天皇即位時から

鳥羽天皇の外戚は閑院流で摂関を望んだにもかかわらず受け入れられず

摂関家は鳥羽天皇と血縁関係になかったために政治介入が妨げられた

幼帝の血縁者として政権を握ることになったのが白河法皇で

このときに実質的院政が始まっている

77日本@名無史さん2012-02-28 10:43:15

>>76

院政は起点を明確にするのが非常に難しい。歴史は常に後から振り返って気付くものだけど。

白河天皇の東宮である実仁親王が15歳で夭逝した時、同じく「愛した女の子供」である

輔仁親王が生きていた。この親王は後三条帝の母陽明門院の庇護を受けていたので、

白河も無視できない存在だった。

そこで白河は摂関家と結んで賢子との子である善仁親王を太子に立て、

自分は同日退位してしまう。堀河天皇の誕生である。これによって

輔仁は「天皇の叔父」世代となり、皇位継承が極めて難しい立場になった。

摂関家は長い間外戚の地位を回復したがっていた。白河は自分の血を皇位に

送り込みたがっていた。ここに天皇家と摂関家の奇妙な利害の一致が成立し、

院政への途が開けた。院政とは偶発的に始まったもので、最初から摂関家の

圧倒を予定していたのではないことが分かる。

だから院政は一筋縄では理解できないし、天皇や摂関という「既存の公的な権力体制」

だけを見ていても意味不明なのだ。何故なら院政は「上皇の私的意思」に発端があるのだから。

「愛した女の子供」を帝位に即けたいという私的意思に。

83日本@名無史さん2012-03-30 10:38:52

太上天皇の制度自体は律令にも規定されている。

律令で幼帝を禁じておけば、上皇は存在しても

院政は発生しなかっただろう。

84日本@名無史さん2012-04-03 11:44:49

>>83

最初の幼帝(元服前に即位した天皇)は9歳で即位した清和天皇だが、

これは父文徳天皇が急死したために皇太子が即位したという実態があった。

幼帝が駄目で叔父や伯父、異母兄が一時的に相続するとなれば

余計に皇位継承が混乱しただろう。

(奈良時代には皇位継承の混乱を避けるため、先帝の皇后が即位したりしていた)

当初は幼帝が即位してもその外祖父が摂政となって政治を代行していたので院政は起こらなかった。

むしろ、院政をおこらなくするには上皇の制限(簡単に退位できないようにする)

ことが肝要だったろう。

91日本@名無史さん2012-04-04 19:59:08

白河上皇は院政を始めたのは、元々自分の子孫に皇位を継承

させたいとの理由だから(先帝後三条天皇は弟に皇位を継承する

ように遺命している)、後三条天皇がいらん遺言を残していなければ

白河上皇は堀河天皇に譲位せず、そのまま天皇親政を貫いて

いただろう。

数百年後の徳川家康が自分の子孫に将軍職を継承させる目的で

3年で将軍職を辞職して、秀忠に譲ったのと同じ。

92日本@名無史さん2012-04-04 20:32:39

>>91

白河上皇は堀河天皇治世時にはほとんど院政を執ってないよ。

堀河天皇は摂関家を外戚とする天皇で、執政者は関白藤原師通。

師通は退位した天皇の政治関与を厳しく批判、堀河天皇もこれに同調し、

父白河上皇の政治関与を厳しく制限した。

白河院政が本格化したのは摂関家を外戚としない孫鳥羽天皇のときから。

95日本@名無史さん2012-04-04 22:36:40

>>92

白河天皇はまず、自分の子孫に皇位を継承させると言うのが

第1の目的であり、院政そのものを狙ったわけではないだろう。

自分の子孫が皇位を継承させることが確定していたのなら、

わざわざ幼少の堀河に譲位しなかっただろう→鳥羽の即位も

もっと遅い→院政はなかっただろうと言う話だよ。

結果として藤原氏を外戚としない鳥羽が幼少で即位しなければ

ならない事態に陥り、自ら政を見ることになったと言う話だよ。

白河天皇が死ぬまでとは言わないが50〜60歳ぐらいまで

天皇を続けていたのなら、原則として幼少の天皇が即位して

治天の君と言うものなんか誕生しなかったと思う。

別に君が早く死んだわけではなく、他の成人の皇位継承者が

いないわけでもないのに、幼少の君主が立て続けにいた日本は

世界的に見ても特殊な例だろうね。

96日本@名無史さん2012-04-04 23:02:39

>>95

自分の子供が天皇にならないと何が困るんだろうね。

後醍醐天皇と白河の必死さは理解に苦しむ。

97日本@名無史さん2012-04-04 23:17:48

>>96

別に天皇に限らず、自分の子供に後を継がせたいを言うのは

普通だと思うけどな。

世襲制の皇位はともかく、現代での政治家や大王製紙みたいな

オーナー一族の会社とかある。

おあお小泉でさえ息子に選挙地盤を譲ったし。

天皇も天智天皇が弘文天皇に、持統天皇は草壁皇子に、崇徳天皇

は重仁親王に、後深草天皇も亀山天皇も自分の子孫が皇位を継承

するように拘ったじゃない?

125日本@名無史さん2012-04-20 07:55:18

>>96

> 自分の子供が天皇にならないと何が困るんだろうね。

まあそれはあるなあ。

本当の古代(雄略天皇の頃とか)なら皇族でも非主流派は粛清されるおそれがあったが

白河さんの頃はそういうおそれはないからなあ。

101日本@名無史さん2012-04-05 00:32:18

>>97

直系尊属でないと政治が執れないからでしょ

白河天皇の弟が即位したのでは政治が執れない

我が子に即位してほしいというだけならば白河上皇は何も政治を執る必要はない

愛する我が子堀河天皇にすべての権限を委譲して好きにせよというだけ

それでも政治を執ろうとして我が子堀河天皇とかなりの大喧嘩して不和になっている

112日本@名無史さん2012-04-05 23:49:23

それと、白河が堀河が譲位したことは、自分の子孫が皇位を継承

すると宣言したのと同じだよ。

豊臣秀吉が秀次に関白を譲り、関白職の豊臣家世襲化と徳川家康の

将軍職を秀忠に譲って、徳川家が将軍職を世襲すると公にしたのと

同じ意味合いを持つ。

113日本@名無史さん2012-04-06 00:49:47

>>112

ということは、後三条帝の遺志が宮廷内に広く知られていたってことだよね。

初期の院政の法的根拠が家父長権だとすると、死んだ父帝の意向に従うことも求められる。

堀河と鳥羽帝は周囲から軽んじられていたかもね。

鳥羽が堀河の唯一の皇子だったせいもあるけど、この頃没した輔仁の子、有仁を白河が抱えていたのは、

世間の批判をかわす目的だったのだろう。こういう小細工を見ても、白河の政治手腕はかなりレベルが高いと言える。

若年の摂関家当主、師実では全く掣肘出来なかっただろう。しかし白河と後白河は

人の生き死にについては本当に運がいい。

114日本@名無史さん2012-04-06 00:56:01

>>113

師実じゃなくて忠実だった。訂正します。

117日本@名無史さん2012-04-06 15:23:41

>>113

後三条の意思、というか、天皇家では家長に皇位継承の決定権があって、

実は家父長だけではなく家母長というか、女性にも権限があったということ。

特に、摂関全盛期には女院政と呼ばれるような女院に強い権限があったことがわかっている。

後三条死後は最高齢の天皇直系尊属であった陽明門院(三条皇女・後三条母)に

強い決定権があった。

白河天皇は陽明門院が養女にして可愛がっていた妹の篤子内親王を

堀河天皇の中宮に立てることを陽明門院に約束して懐柔し、

どうにか陽明門院に堀河天皇即位を納得させている。

陽明門院懐柔に失敗していれば即位は難しかったということ。

118日本@名無史さん2012-04-06 15:35:58

>>117

そうすると、広義門院の院政も、その延長上の事態ともいえるのかな。

122日本@名無史さん2012-04-18 13:15:21

堀河天皇か藤原師通のどちらかが50歳まで生きていたら、

院・摂関・帝が協調する三権分立的な緩やかな政治体系になっていただろう。

何故なら白河はとっくに成年に達した堀河を退位させるそぶりが無かったから。

123日本@名無史さん2012-04-18 19:37:53

>>122

堀河天皇自身、外戚である摂関家の後ろ盾があったため、白河法皇の好きにできなかったというのも大きい。

院政は堀河天皇即位と共に軌道に乗ったのではなく、、むしろ堀河天皇の御代は摂関政治が復活していた。

堀河天皇はなかなか子に恵まれず、死んだとき第一皇子の鳥羽天皇はまだ5歳だったという現実はある。

しかも鳥羽天皇の母親は摂関家出身ではなかったため、摂関家は難色を示していた。

白河天皇が死んだ母親の代わりに生後すぐ手許に引き取り育てた鳥羽天皇が即位した時初めて、

白河院政が軌道に乗る。

124日本@名無史さん2012-04-19 09:05:08

>>123

>摂関家は難色を示していた。

さりとてほかの候補者がいたかというと、これが全然ダメ。

35歳の輔仁親王も外戚が死んでいたし・・・。

堀河の若死にこそ、終わりの始まりだったということみたい。

126日本@名無史さん2012-04-20 10:59:18

>>125

白河天皇の場合は型破りな父後三条天皇に対する強い反発があったからかもね

自分の母親は早く死に、後で迎えた身分の低い別の妃に入れあげて・・・みたいな

137日本@名無史さん2012-12-12 21:42:11

似たような例として、

鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍も成人したら交代した例が多い。

141日本@名無史さん2012-12-13 19:28:13

>>137

鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍は完全なお飾りというわけでもなく、多少の影響力はあったから警戒されたのでは

なかったか?

139日本@名無史さん2012-12-13 13:23:01

摂関期には、父権を行使できるような院がいなかったということじゃないかな。

円融院は、一条即位後には父権を振りかざして人事にも介入していたというし。

140日本@名無史さん2012-12-13 18:57:34

>>139

一条天皇は年に一回正月に父円融法皇のもとへ行幸し院の官僚たちに叙位を行っていたが

円融法皇に後世の白河上皇のような権限はなかったし(一条の傍には老獪な外祖父摂政兼家がいたことも大きいが)

一条母東三条院詮子の「女院政」には遠く及ばなかった

東三条院の嘆願で藤原道長が執政者になったのは有名な話だし

他にも一条天皇は自身の母系が藤原氏であることに感謝して藤原氏の氏神春日大社に参拝している

彰子立后に同意したのも春日大社の神事を行うには仏門に入っていない藤氏出身の后が必要と

説き伏せられたため

143日本@名無史さん2012-12-14 00:31:08

>>140

春日行幸に関しては、兼家と円融院の間で色々な駆け引きが行われているが、

そのときには、母后の意向云々は重視されていない。

摂関政治の要因の一つとして、父権を行使できる院が不在だったというのは

よく言われる話じゃないかな。

145日本@名無史さん2012-12-14 17:59:17

>>143

一条天皇の春日行幸には詮子の意向があったことが記されているよ。

詮子は導子立后に際して懐仁親王(後の一条天皇)を連れて里へ帰り

父とともに円融天皇に退位を迫ったり、春日行幸に同行するなど

明らかに夫円融法皇とは別行動を執っている。

149日本@名無史さん2012-12-24 04:01:00

日本が母系制から父系制に移行したのは院政の影響?

151日本@名無史さん2012-12-26 13:02:20

>>149>>150

院政も中国文化もあるだろうが

武者の世になったのが大きいんじゃないかな。

160日本@名無史さん2013-03-11 00:13:30

日本の武士層が、白河院政の頃の源平と山法師みたいな状況のままで、

元寇になったら、日本はどうなってたんだろう。

「○○・ハーン」と皇女が結婚させられて、「○○・ハーン国」になってしまったんだろうか?

161日本@名無史さん2013-03-11 07:01:04

>>160

元寇の時も朝廷は穏健外交を望んでいたので、戦闘は回避できたかも。

165日本@名無史さん2013-03-14 22:00:02

>>161

いや、鎌倉幕府が反対したから送らなかったけど、

今のネトウヨ顔負けの返書案を送ろうとしたのだが。

実際のその案文(控)は『鎌倉遺文』に所収されている。

164竹下登元首相2013-03-13 16:57:13

院政だわな

167日本@名無史さん2013-03-17 21:45:57

>>165

大宰府守護所は使節一行を対馬に留めさせ、

使節がもたらした牒状を鎌倉に送付し、鎌倉幕府側はこれを京都の朝廷へ転送した。

朝議では両書状について検討されたが、蒙古側の服属の要求を拒否する事に決し、

拒絶の返牒を出す事にし、文書博士・菅原長成に文案を起草させ、中書省牒に対して

返書「太政官牒案」草案を作った。草案には「蒙古という国はいままで知られず、

何ら因縁もないのに武力をもって臣従を迫ることは非常に無礼である。

日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」と自国の独立性を主張した内容だった[80]。

また、高麗国王にも返書案を作成しており、そこでは拘束されていた

弥二郎らの送還に便宜を図ってくれた高麗側に慰労と感謝を述べた内容であった。

(ウィキ)

179日本@名無史さん2013-10-24 07:43:35

清盛の「朝廷を丸ごと人質にする」福原遷都が一番理に適っていたわけだね。

清盛が院政を停止した状態で後白河が死んでいたら、院政もそこで終ってしまい

天皇が頂点に立つ政治が復活していただろう。

180日本@名無史さん2013-10-24 07:53:55

>>179

清盛は後白河院政は停止したけど

代わりに「高倉院政」を開始させた。

傀儡とはいえ当時院政はやっぱり必要。

高倉院政は高倉上皇の崩御により停止。

その直後仕方なしに後白河院政が復活している。

181日本@名無史さん2013-10-24 08:39:16

>>180

高倉死後、後白河まで死んでしまったら、院政する人いないでしょ?

ってことだろ。

183日本@名無史さん2013-10-24 12:35:49

>>180

> 高倉院政は高倉上皇の崩御により停止。

結果的に高倉院崩御が歴史を大きく変えたような気もする。

182日本@名無史さん2013-10-24 09:39:51

>>181

後白河法皇の死後しばらく後鳥羽天皇親政だったが

土御門天皇が産まれて暫くしたら譲位して

後鳥羽院政が始まったぞ。

184日本@名無史さん2013-10-24 13:43:12

>>182

頼朝は朝廷がやることに口出しできなかったからね。

あの時点で高倉天皇も後白河法皇も死に院政がなかったら、

安徳天皇を擁した平氏政権はもっと続いていた可能性がある。

186日本@名無史さん2013-10-24 14:01:00

>>182

あれは、院政がどうしても必要だったから、

まだ若い後鳥羽天皇が幼い土御門天皇にやむなく譲位して、

必要不可欠な院政という形態を無理矢理執ったわけではなく、

土御門天皇の外戚源通親が実権を握るべく、後鳥羽天皇を譲位させたんだよ。

源通親は後鳥羽天皇の乳母の再婚相手であり、幼少期から後鳥羽天皇を守り育てた恩義があり、

後鳥羽天皇も乳父の通親には逆らえず、後鳥羽院政とはいっても実態はあまりなかった。

しかし、通親が後鳥羽上皇妃で土御門天皇生母であった通親の養女源在子(妻の連れ子)と通じたことから

次第に後鳥羽上皇は通親と土御門天皇を疎んじ始め、距離ができる。

通親が死んだあとは、後鳥羽上皇が院として実権を握った。

185日本@名無史さん2013-10-24 13:47:41

院が必要不可欠だという認識はいつ頃確立したのだろうね。

二条帝の時は親政派が一大勢力になっていたのにね。

187日本@名無史さん2013-10-24 16:33:53

>>186

あの時点で後白河上皇は中継ぎで院政する資格はない

と見なされてたからね。

鳥羽院領は美福門院が握ってたから後白河上皇には経済的な力もない。

美福門院が娘婿である二条天皇に領地を譲位の後の二条天皇に譲ったとしたら

二条上皇(になった場合)鳥羽院政並みの強力な院政を行った可能性もある。

190日本@名無史さん2013-10-24 16:49:34

>>186

それはその時期に譲位が行われた理由にはなるけど

親政推進の理由にはならない。

院政を支えるもうひとつの柱院領の存在を忘れてはならない。

天皇のままでは荘園を保有することはできないが

上皇ならば荘園を保有できる。

後鳥羽天皇は退位後、時期を開けるが八条院領を獲得する。

また後白河院領も後鳥羽上皇の支配下に入る。

莫大な経済力を背景に強大な後鳥羽院政を開始する意図があったのだろう。

1881872013-10-24 16:36:33

>>187は>>185へのレス

192日本@名無史さん2013-10-24 17:37:59

>>190

>天皇のままでは荘園を保有することはできないが上皇ならば荘園を保有できる。

天皇も私的な荘園を持つことができるよ。

有名な長講堂領は、後白河法皇→宣陽門院を経て、鎌倉幕府の一時没収後、

現役の天皇である後深草天皇に譲られている。

八条院領も、八条院→昇子内親王を経て、現役の天皇である順徳天皇に譲られている。

(退位後の後鳥羽上皇が八条院領を所有したことはない)

さらに八条院領は時代を経て、現役の天皇である後醍醐天皇も所有している。

201日本@名無史さん2013-10-26 07:03:00

>>192

基本的に前近代の日本の法に「後法優越の原理」がないから、

後法と矛盾しない前法は無効にならないし、極端な場合前法による決定が「先例」として確立された場合は後法の適用がされなかった。

212日本@名無史さん2014-03-04 15:17:03

武家の象徴である源義家と並び白河院は

中世の始まりを告げる象徴的な人物

法皇が源氏を牽制するべく平正盛を優遇したことが

後の源平の争乱に尾を引いていくのが興味深い

216日本@名無史さん2014-09-23 02:22:47

鎌倉幕府の執権と得宗の関係に似ているな

217日本@名無史さん2014-09-25 15:17:00

そもそも、文武天皇の後見をするために、持統天皇が上皇が天皇と同じ権力を持つことにしたのが、ことの発端だっけ?

218日本@名無史さん2014-09-26 11:13:51

>>216

太上天皇は天皇と同権であることが律令に規定されている

だから特定の法整備のなかった執権や、北条家嫡流を表す得宗とは全く違う

>>217

持統天皇は夫天武の側室たちが産んだあまたの皇子たちを退けて

若年15歳の自分の孫文武天皇を即位させて自分が政治を執った

持統は天皇在位中も自分で政治を執っていたため天皇が次の天皇を指名するための譲位だった

太上天皇が天皇と同権の共同統治者であることを定めた大宝律令は

持統太上天皇の死の2年前に発布されており持統太上天皇の考えである可能性は高い

263日本@名無史さん2015-03-14 00:24:41

なぜ藤原氏が自分で王にならなかったのか教えてください

中国だったらなってる奴がいるのに

267日本@名無史さん2015-03-14 11:30:22

>>263

摂関家生まれの慈円(関白九条兼実の弟)が書いた「愚管抄」に書いてあるよ

帝の地位はただ血統によって決まる

帝になるのに政治能力は問われないので政治は別の臣下に任せるべきである

その政治を任された臣下が摂関家なのである

平安時代末期にすでに天皇と政治は切り離されていて

摂関家が内部で熾烈な政権奪取争いをやって政治を執ると思われていた

265日本@名無史さん2015-03-14 00:30:18

例えば、

次の天皇が幼少なんで、摂政のオレが天皇になるわ〜

くらいなら大して反対も起きなさそう

268日本@名無史さん2015-03-14 12:08:24

>>267

血統で決まる帝の地位だけど、帝の一族は権威を高める努力を行うのが仕事です。

帝に権威があるからこそ、帝の名代としての摂関家の地位も高くなる。

そう考えると鳥羽院が得子可愛さに体仁を皇位に就けたのは大失敗でした。

白河と鳥羽の行動を比較すると、鳥羽のバカさ加減がよく分かります。

269日本@名無史さん2015-03-14 14:40:23

>>268

慈円は摂関家に都合の良い言い分を言っているだけで

天皇には天皇の言い分があると思うぞ

鳥羽天皇は政治を手放したとは思ってなかっただろうし

282日本@名無史さん2015-11-14 23:29:20

生前譲位は継承が不安定な場合に行われる

白河院の場合も本来は自己の系統の継承を確実にするため

310日本@名無史さん2016-07-16 07:48:22

>>282

今上は皇太子に安定的に継承させたかったのか

最後の生前譲位として名前が報道されてる光格天皇も兄宮や中御門天皇の男系子孫がいたからなんだね

301日本@名無史さん2016-07-13 23:39:22

平成上皇の仙洞御所はどこになるんだろう

332日本@名無史さん2017-03-29 21:12:40

>>301

東宮御所に落ち着きそう。

318日本@名無史さん2016-08-28 22:40:22

>>310

生前譲位は継承が不安定な場合に生じやすい

383日本@名無史さん2017-11-02 08:54:57

>>380

中大兄皇子の母は王女。

当たり前だが母方を滅ぼしたわけではない。

それどころか蘇我傍系の蘇我山田石川麻呂の娘を娶り

蘇我氏系の補強すらしている。

(この間に生まれたのが持統天皇。男子は早世したが

生きていれば天皇になれていた)

401日本@名無史さん2017-11-22 17:07:22

藤原頼通が無能なら何十年もよく一の上やってたよね

頼通が関白引退してずーっと後に院政が始まっているのに

「頼道が関白をやってる頃から、院政をやろうやろうと天皇家内で話し合っていた」

って何をもって行ってるんだろう

だいたい天皇と上皇って仲が良かったわけでも何でもなく対立してたことが多いのに

院政は摂関家をぶっ潰すために天皇家が編み出した方法だったってw

後の時代のことを教科書で呼んだから知ったかぶって

次代をさかのぼってタイムマシーン上の話をする奴がいつも日本史板に現れるね

402日本@名無史さん2017-11-25 00:08:48

>>401

頼通が有能とか無能とかスレ違いだし本筋に関係ないだろ

なんでそこに拘るのかわからない

摂関政治で問題が無ければ天皇も文句言わなかっただろう

でも実際に大きな問題が持ち上がった時に、合議制の摂関政治では何も決められず

関白頼通が(本来のトップである)天皇に問題を丸投げしてきたのを見て

天皇も公卿も決定力を持った天皇(家)の政治を待望したわけだ

その結果が後三条、白河の親政と、その後の院政となった

別に摂関家を潰そうという訳ではない(実際に潰してない)

強力な政治決定能力のある体制を朝廷全体が欲して、それが院政という形になった

なんで天皇親政の形でなく院政になったのかというと、自分にもよくわからない

おそらく最初に院政で強権をふるった白河上皇を見て後代の上皇が体制を模倣したのだと思う

やがて制度として治天上皇の指名が天皇即位に必須となって、院政は幕末まで続いた

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